テレビや新聞は、言うまでもなく「主要なメディア」と呼ばれるに値する、庶民の情報源であることは間違いないでしょうね。インターネットも、情報の出所の曖昧さが問題になりますが、ほぼ、庶民の情報源となってきていることは間違いないと思います。
今朝(6月26日朝)は、秋葉原の殺傷事件で、九死に一生を得た、タクシー運転手の方へのインタビューが、多くの新聞、ラジオ、テレビで取り上げられていました。
また、朝日.jpさんをやり玉に挙げるようで申し訳ないですが、以下の被害者のタクシー運転手さんの発言という、取材記事がとても気になりました。
加藤容疑者の実情は報道などで知った。「私も店を失敗したけれど、勝ち組、負け組なんてどうでもいい。人に迷惑をかけずに生きていればいいことはある。私はそう信じて生きてきました」
という部分は、本当にそのまま、被害者本人のご発言なのでしょうか?本日付で見た、各局テレビ報道での、ご本人の発言とは、およそかけ離れたニュアンスを持っています。
私が主要なテレビで見た、被害者ご本人の発言は、おおよそ以下のようなものでした。同一の人が、上記のような物言いをするとはとうてい思えないのですが。。。
「勝ち組、負け組といって、勝ち組に負けたのではなくて、この人(加藤容疑者)は、自分に負けただけ。自分を勝手に負け組にして、簡単に判断をくだして行動してしまった。とてもかわいそうな人。」
ところで、ネット上では、中日新聞、サンスポ、スポニチに関しては、事件の事実説明のみで特に気になりません。事故・事件報道として普通です。なかでも、中日については、被害者ご本人の記憶の一部消失なども記載されていて、取材には気を遣うべきであることを示唆しています。
あらたのは思いますが、取材記事というものは、取材内容の部分を取り出す、あるいは組み合わせる事によって、あたかも全体のように誤解を起こさせる表現について、慎重すぎるほど慎重に推敲を重ねるべきと思います。
ましてや、インターネットのニュース記事という物には、事実上、原稿用紙の枚数制限がありません。あったとしても、それはわかりやすさを追求するために、簡潔にまとめて。という範囲でしょう。
ですので、テレビで拝見した、タクシー運転手の湯浅さんの、声や人柄、発言内容に関して、そこから「勝ち組、負け組なんてどうでもいい」という言葉が出たとは、どうにも合点がいきませんね。
人というのは、会って、対話をして、握手を交わし、理解し合うことに努力して初めて、やっとこさ、コミュニケーションへの第1歩です。
遠く離れた人や、直接知らない人。普通なら一生会うことのない誰かを知らせることは、知る権利を盾にすれば、それは合法でしょう。
しかし、知るための媒体が、それしかない場合は、知らされる方にも「より正しく知る」権利があり、部分的にしか知らされなかったり、内容に編集や脚色が入る場合には、私達、メディアの利用者の知る権利が侵害されているとも言えるのではないかと思います。
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