2009年6月26日の衆議院TV、法務委員会の審議(5時間24分)を何度か巻き戻しもしながら慎重に見ていった。求職活動や、そのほかの地元の活動、おもちゃ病院の活動など、仕事が無くても忙しいあらたの(笑)が、合間を見ての視聴で、疲れた事この上ないが。。。
結局、このあと、7月9日には、自民・公明・民主の3党が修正協議に入り、おそらく合意の上で「単純所持禁止改正法案」が形成されそうな気配である。このことについては、ニュース等で、ほんの少し紹介されただけだが、日付と語句で検索した結果として、以下のサイトが、永田町の現場に近く、正確であると思われる。
「児童ポルノ禁止法」の与野党修正協議の行方は - 保坂展人のどこどこ日記
7月10日、ならびに7月14日には、衆議院法務委員会は開催される予定はないとの記事で、そうすると、選挙もにらんで、今国会では成立は無いかも知れない。
あらたのは、これまでの意見に変更はない。「実写の単純所持禁止はやむなし」「創作物は単純所持禁止に反対」である。
しかし、審議の流れもまったく知らずに意見を書くことは出来ないと思い、一庶民が使うには、もったいなさ過ぎる合計8時間を、この衆議院TVに費やしたのである。これは、国会中継に普段あまり興味のない、小生としてはまさに異例の事態である。
視聴したことに対する、細かな感想はここでは省きたい。ただ、これまでにも一庶民として絶対に応援したくない国会議員が何人か居るけれど、それが、一人増えたのは事実だ。自民党の葉梨康弘氏である。
彼は、民主党の対案を作成した、枝野幸男氏に対して、質問の中で、再三にわたり、警察官僚エリートよろしく、意地悪な質問を投げかけていた。彼は彼自身曰く、この法案の審議には当初から事務方として充分に関わったとの事で自信満々である。他人の意見を聞く態度も良くない。
彼の発言には、随所に「私はそう思う」「個人的には」という言葉を挟み、この表現の自由に関わる重要な法案に関して「与党意見」でも「政府見解」でもない意見を展開しており、責任所在を不明確にした発言には、一国民として少なからぬ憤りを持った。
たとえば、捜査の行き過ぎや冤罪についての問題を話すとき、「捜査に不審があるからと言って、国会の場で弥縫策をしていいのだろうか」と「個人的にそう考える。」と言うご発言。つまり、個人的には、「警察は大丈夫です。」「まずは、所持している人は誰でも捜査できるようにしてください。」である。
また、「国際的にこれだけの非難を浴び」と言われ、「国民的コンセンサスが、平成11,16年には醸成できていない為、単純所持禁止を取り下げた」との事だが、国民の私たちには、「国際的非難の内容」「日本発信の児童ポルノの世界での流通の実態」が、今でも、まったく報道、広報を通じて知らされていない。一国民としてこれは、納得でき無い事である。
結構アンテナを立てているはずのあらたのですら、NHK特集や、クローズアップ現代、その他民放各社の特別番組などで、「心ない日本人が海外でばらまく児童ポルノの実態と、海外からの怒りの声が聞こえてこない。番組が必要最低限すら製作されていない。」と思うのは、あらたのだけだろうか? これに対する反論や、そのような番組があったと言う事があれば、どなたかご教授願いたい。
さて、葉梨氏の質問に対する、枝野氏の答弁には、残念ながら歯切れの悪さもあり、準備不足とも感じた。しかしまた同時に、葉梨氏の「肛門、性器、乳首」にはじまり、「後ろ姿は?」「パンツは?」「上半身裸+スカートは?」と、へたくそな絵を振り回して、ほとんど「いびり」か「いじめ」のようなエリートらしからぬ、論点すり替えの質問を見て、画面に思わず怒鳴り散らしたくなった。
自民党の葉梨氏が提示したそれらの絵は、「露出」と「強調」は、どこからどこまでかという事が、民主党案の中では、大変不明確で、いかにいい加減な修正案かを、まさしく「強調」したかったのであろうが、それは逆に、「児童ポルノ」が、いかにいい加減な定義に基づくものであり、それを警察権力で、取り締まり、処罰の対象としようとしているものだという事を自ら示して居るではないか?
しかし、これらの質問に対しての、民主党枝野氏の回答も、論客と言うにはほど遠く、準備不足、選挙前で腰が引けている、選挙目当てのパフォーマンスレベルと言われても仕方ないほど、弱々しいものだった。これでは、元警察官僚エリートに負ける。「強調」や「露出」に対して、きちんとした論陣を張り、切り返しのシナリオを書いておくべきだった。
あらたのは簡潔に言いたい。「強調」や「露出」は、心理に及ぶ、人間の感情に訴えるものである。これは「芸術」と言い換えられる。だからここに、これまで「猥褻」という線引きで思うように捜査・逮捕が出来なかったからと言って、法律がこのような形で、踏み込んできている事が、決して看過できないのだ。
表現や素材、画材を変えれば、また見るものの目を変えれば、同じ作品や映像がまったく違うものに映るのは、人間に与えられた能力の素晴らしさであり、偉大さなのだ。今の児童ポルノ単純所持禁止は、この人間に与えられた性という機能、自由な選択と異文化交流、個性の違い、これらを否定するための「第一歩の運動」とも取れる。
葉梨氏は、これら一連の不愉快きわまりない、へたくそな絵を見せて質問した上で、「どうとでも解釈できますね~。」と発言。まわりも議員も少なからず笑い声を上げていたが、やっている事は国会でのヤクザのイチャモンで、ほとんど「いじめ」の手法である。この状況は、次の私たちの表現の自由への冒涜につながる道だと思った。
葉梨氏の質問は、同じ事を、単純所持している画像、絵画について、どこまでを単純所持として捜査しますか?と、牧野氏が葉梨氏にすれば、状況が逆転するような内容。であるにもかかわらず、防戦一方という感を否めないのは、「児童ポルノをあなたも持ちたいの?へへっ。。」という、意地悪な質問を口には出さなくても、それが聞こえてくるような、世の中の状況がそうさせているのかも知れない。
最後に、足利事件の冤罪と、単純所持禁止改正法案が可決成立、施行された後の、単純所持に対する冤罪は、「レベルが違う」と葉梨氏は発言されたが、冤罪は、その人の社会的地位や名誉を著しく傷つけ、子や親、親族、友人を悲しみに突き落とし、人生を破局させるのに充分な威力を持つ。
笑って「レベルが違う」などと、軽々しく言える事ではない。
この問題は、徐々に、小生の中で大きな問題としてふくらんでいく事は間違いない。
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