朝からWEBで、溜まりに溜まっていた退会手続きや、メール配信停止手続きをやっている最中、一瞬わが目を疑う死刑判決がニュースで目に飛び込んできた。
ニュースソースが疑わしいサイトだったので、再度、一般紙のWEB版で確認したが間違いない。以下は毎日.jpの記事である。
宮城・石巻の3人殺傷:裁判員、少年に初の死刑 「更生可能性低い」-仙台地裁 - 毎日.jp
※リンク先は記事が無くなりリンクを削除しました。(2011/02/16更新)
およそ、少年という年齢、この場合は被告が19歳という年齢での判決であるが、「更正の可能性」を裁判員および裁判官が何をもって判断できるのだろうか?
以前、最高裁も含め、裁判官、検事、判事、弁護士など、エリートと呼ばれる人々の胆力が、著しく欠如してきていると書かせてもらったが、まさにこの事例もそれに当たると、あらたのは思う。
ようするに、裁判を安・近・短にして、裁判官も休日はエリートライフを謳歌したいって事かな?人の命の重みを(この場合、亡くなった被害者の命の重みと、遺族の生きて感じている命の重み、さらに今は生きている加害者の死刑判断においての命の重み、すべての加算となるが)裁判員に片棒担がせて、軽くしたいって訳だ。
明治以前の日本人と比べると、僕だってたいした精神力はないけど、本当に苦しみを受けきって判決を下そうという根性がないように見える。
「死刑」と判決を下せば、世論のうち、激しい怒りのセクトからの攻撃をさけられ、遺族から不満を訴える声も聞かずにすむ。「死刑」が「極刑」という短絡的な思想からはそれしか生まれないのではないか?以下のような弁護士の意見も目にとまった。
弁護士 猪野亨のブログ 少年事件で死刑求刑 裁判員裁判-11月19日
弁護士 猪野亨のブログ 裁判員裁判 少年に死刑判決-11月25日
以下の意見も秀逸。庶民的。あらたのは同感。言いたいことを代弁してくれてますな。一億総死ね死ね団というこの人の表現も、日本のマスコミの誘導による国民のヒステリックな状態をよく表している。
Afternoon Cafe 少年を見捨てる社会
よく考えてみれば、被害者遺族の苦しみ悲しみを、第三者が思い計ることは究極的には不可能だ。それは以前にこのブログのどこかで書いた覚えがある。で、同じく殺人を犯した少年が更正の可能性をその生命に包含しているか否かを裁判員および裁判官が定点測量するのは不可能だろう。
世論という見えない圧力と幻にほだされ、生命の可能性を絶つ恐ろしい判決とあらたのは見る。
いつも、このような裁判で、死刑を支持する人たちの意見は「被害者の気持ちを考えたことがあるのか?」という「被害者以外からの的はずれな激しい意見」だが、意見を言っている当の本人も「被害者でない限り」気持ちを推し量ることは出来ないはずだ。
一方、「極刑とは何か」と考える。あらたのは、死刑は極刑ではないと考えるから今回の判決に対しては特に、反論を書かずには居られないのだ。
僕なら、遺族が許すと言うまで、永久に懲役刑を科してもらう方が、気持ちが晴れるだろう。苦しみ続けてもらいたいと考える。死んでしまったら、それは生からの解放であると思うし、生には生の苦しみがあるのだ。
(後から追加)2010/11/26 21:25
国連がまた死刑執行停止を採択したようだ。アムネスティーからの発信であり、現段階で国連の英語サイトでは、僕の英語力では確認できなかったが、12月には本会議が行われて採択されるようだから、いよいよ日本の法治国家としてのこれからを問われる事ともなろうし、世論の動向が見逃せないですな。
国連 : 再び死刑執行の停止を採択 - アムネスティーインターナショナルジャパン
それにしても、国際世論だとして、児童ポルノの単純所持規制には躍起なのに、死刑制度については、国際的に勧告を受けても逆行指向ですか・・・この国の中枢が考えてる事がよう分からんわ。
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