人間には常に、「成れない理想の自分」がある。人間は超人にはなれないから、どこかで妥協点を見いださないと、精神に無理を生じ、社会的な人間関係に、あるいは家族など周囲の人に悪影響を及ぼす。
片付かない部屋を、すっきりと片づけることで、自分の持つ「理想の自分」との大きなギャップのいくらかを思い切って捨て、気分も爽快、気持ちよい再スタートを切るという。。。一種の悟りを得ようというもので、NHKでは、年末に「断・捨・離」というキーワードで紹介されていた。
その時に批判記事を書こうと思っていたが、今朝、民放でも「捨てさせるプロ」のビジネスとして紹介されていたので、今日こそは書かねばとPCの前に座っている。
これは、仏教徒でもあり、日蓮を心から信奉する管理者「あらたの」だから、はっきり言うが、このような煩悩を絶つことで得られる悟りは、明らかに小乗教の戒律とそれを持って(たもって)得られる、小乗の悟りである。
小乗の悟りは、大衆誰でもが実践できるものではなく、暇と金をもてあそんでいる上流階級の悟りであって、われわれ底辺の庶民には縁遠い実践方法だ。釈迦本人が晩年否定した修行であり、日蓮をして「律・国賊」とまで言わしめた「戒律というもののもつ本質的な2重構造」が、そこには見えている。
仏教では、煩悩に悩める衆生を悟りの境地に運ぶためには、小乗教は小さな舟。大乗教は大きな舟。と喩えている。
まま、宗教観を語ることは、マイティジャックファンを標榜する管理者としては、ここでは非科学的と誰かに言われそうだから、ここまでとするが・・・
今朝の日本テレビでも、また取り上げられていた「捨てる相談ビジネス」。不要なものを捨てるコツを伝授し、家をすっきりさせて、夫婦のもめ事も減らし(笑)新たなスタートを切るとな。ふむふむ。。言ってることは、昨年の他局の放送と変わらんな・・・
ブログタイトルで「ワナだ!」とまで書いたあらたの。長いこと環境保護について具体的に実践してきた自信もあり、これらの放送が、新たな購買意欲を喚起する狡猾なマーケティング戦略であることをここに書き残しておく。
まず、1点目に、これらの「断・捨・離」サービスを利用した取材先の家庭の、家そのものを見て思ったことが「充分に広い持ち家」であること。持ち家を持つと、たいていローンのために生活を切りつめて、節約に努めているケースが多いから、持ち家に買い物を溜めこむ人は、かなり豊かである場合が多い。それほど豊かなら、このサービスを受ける以前から、他に施すと言うことを学んでおけば済むことではないか?
もともと豊かであって、深夜にテレビショッピングで衝動買いを続け、気が付いたら一部屋丸ごとゴミ屋敷。と言った所だが、あの程度の散らかりようで「で、どうなの」って印象が強かった。棚や家具の配置を工夫して、置き直すだけで片付く量だ。
わざわざお金を払って、一部屋空っぽに近い状態にし、それで喜んでいる姿を紹介している放送内容そのものに胡散臭さを感じたのは、あらたのだけだろうか?
2点目に、一部、人に譲るとか、寄付するというキーワードも聞かれたが、「受け取ってくれる人を探す」「寄付先を見つけて送る・手渡す」と言うことが具体的に紹介されて居ないこと。実際に真剣に取り組んでいる環境保護活動団体は、どこもみな苦労に苦労を重ねている。
寄付する側も、送料負担で送るためにお金を使い、受け取った側も、海外や、国内の満たされない施設や個人を探して、物品をリフレッシュして手渡すまでの、並々ならぬ苦労。それらの目に見えない、心底からの善意の苦労がどれほどのものか分かっているのか居ないのか・・・分かっていて原稿を書いているとは到底思えない。
あらたのは自信を持って、これらの「断・捨・利の犠牲者となった物品たち」は「捨てられている」と見る。おそらく半分以上は。。。で、捨てられ無かった物品は、大半、リサイクル業者の手に渡っているはずだが、これは批判に当たらない。「活用」されるからだ。
だが、「断・捨・離」を、人の心に安らぎを届けるサービスとして、それほど素晴らしいビジネスと胸を張るなら、「すべては捨てずに、持てるものは持たざるものに」と、徹底して実践させ、処分した物品を、苦労無しに右左で利用(換金)したり、あれだけ執拗に放送していた「CO2悪玉宣伝」と背反する、このようなサービスを、手品のように色を塗り替えて宣伝し、「良いものご紹介してますよ」みたいなポーズはいい加減に止めたらどうか?
3点目が、最初に書いた「戒律の2重構造」である。「断・捨・離」は、人に心の安らぎを与えると看板を立て、よりよき社会を目指すと誇示しながら批判をかわし、その実、次の購買意欲、すなわち捨てたはずの煩悩を、根本的に解決できていない人達に、再度、煩悩を提供(豊かな生活、セレブな生活、グルメな生活)を毎日画面でチラつかせるから、結局は「新たな購買層の開拓作業」をしている。
最初に狡猾なマーケティングとまで書かせて頂いたことにここで合点が行って頂けるだろうか?
昨年のNHKで紹介された「断・捨・離」サービス利用者の家の「サービス利用から1ヶ月後」を紹介しているのには、さらに手が込んでいると感じて腹が立ったが、1ヶ月後も「生まれ変わったみたいで片づいた部屋に嬉しい限りです」なんて放送していたのだから、それなら是非、半年後も複数のサービス利用者の家庭をデータを添えて取材してみて頂きたい(笑)
おそらく、片付いた部屋には、また新しい煩悩が詰まって行くだろう。戒律は自ら決め、自ら実践するのが本物である。他人が笑顔で勧めてくる戒律には必ずワナがある。結局欲望の権化のような誰かを肥え太らせている可能性があると言うことだ。
最初に書いた、日蓮の言葉、「律・国賊」は、戒律そのものを否定しているのではない、僕なりに言えば、戒律は科学と逆のベクトルを持つ、同次元の要素であるのだ。つまり、それを使うものの心の善悪で、史上最高の理想世界を現出することも出来れば、史上最悪のカタストロフを起こすことも出来る、諸刃の剣である所が、科学とさほど変わらないほど危険なものだと言うことを書いておこう。
まま、この「断・捨・離」サービス。われわれ、究極の貧乏人には、その利用など、毛筋ほども考えられないビジネスである。なんと言っても我が家は狭い(爆)。次々と何かを買える経済的余裕もない(苦笑)。使えるものは、もらえるなら何でも遠慮無く貰う(恥AND喜)。
要らなくなってきても、いつか要るかも知れないと持ち続ける。どうしても要らなければ、分解して要素毎に使えないかどうか再検討する。
究極のエコは、全てのものを「もったいない精神」で使い切ることである。道具を上手に使えるのが人間なのである。
このような「断・捨・離」を、金を払ってまで利用しないと悟れないのは、きっと、現代日本の、いや、世界的に見ても石油で豊かになった現代人の、人間力の低下の現れなのである。
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