阪神大震災の時と同じく、途中で震災への命名が刻々と変わり、宮城県沖巨大地震から、東北・関東大震災、東日本巨大地震、東日本大震災などなど呼び方が増え、変化していった、この2ヶ月。
この大震災で、大切な人を亡くし、心も体も傷ついて、まだ先の見えない生活を送っている人が何十万人もいるという事実。本当に心からお見舞い申し上げます。と書くことしかできないし、言葉が何も見つからない。
また、3月15日に書いた福島原発についての記事から1ヶ月、残念なことに予想通り、いまだに原子炉冷却と、放射能除染の難しさが被災地の復興を阻んでいる。
あらたのが理事長を務め、3年目を迎えた、NPO法人「地球の使者」で、3月11日の発生当日から進めていた救援物資の支援活動が、なんらかの形で目に止まったらしい。ある企業から支援の申し出があった。非常にありがたい話だった。自分の身の丈いっぱいで丁度か?少し背伸びをすれば?というぐらいの、思い切りの支援ができる。
罹災証明書を発行して貰った過去の「被災当事者」から、はじめて「外部から被災地に入るボランティア」としての自分自身を見ることができる。そのときの自分の立ち位置やアイデンティティーを再確認できる。
自分の中で誰かが「行け!」と叫んでいたと思う。12ヶ月の就職浪人からやっと得た、週3日しかない今の仕事はちょうど1年目。カリキュラムも前年と同じでこれも仕事負担の軽減につながり、後押ししてくれた。5月2日(月)午後から5月8日(日)までは、完全なフリーだ。
5月2日夜から3日夕方、事故渋滞などの不運もあって、18時間かけ仙台市内に到着。利府町のボランティアに解放された、スポーツ施設内の合宿所に1泊。翌日、4日の朝6時半に南三陸町に向かった。登米東和インターチェンジで降り、現地のボランティアスタッフと合流。
本吉街道(国道398号)を下って、徐々に海岸が近づく。。途中、石巻市は、高速道路から見えたが、遠くから見ただけだ。そして、南三陸町志津川の被災地を眼前にして、やはり。。言葉を失った。
被災地の状況は、報道ではまったくわからない。といって良いと思う。個人的には目と心に焼き付けて帰ってきたという感じ。デジカメは持って行かなかった。携帯で撮った写真は後ほどアップするつもり。
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