■MJを毎週見れるようになったきっかけ(1968年)■
マイティジャックは、土曜日の夜8時に放映されていた。
WikiPediaの情報によれば、初回放送は、1968年4月6日の「パリに消えた男」からで、私の記憶の中では、本放映を見た事は絶対にないと断言できる。
というのも、見たい!見たい!と言って駄々をこね、叱られて泣いて寝入った記憶があるからである(恥)。私が最初に見たのは、5月に入ってからの「メスと口紅」に間違いない。
それぐらい、当時は、小学校高学年といえども、夜8時以降のテレビ番組の視聴は厳しいものがあった。もちろん、全ての家庭が。と言うわけではなく、私の家庭が厳しい目だったのか、緩い目だったのかはわからないが、総じて、子どものテレビ視聴に対しては、厳しい時代だったと思う。
ましてや、ウチの父親は、前年に、当時、一世を風靡した高視聴率の「ウルトラマン」ですら、「話題だったから」「家族が皆見るから」、と言う理由で少し見ていたにすぎず、途中でウルトラマンを見なくなった事もよく覚えている懐かしい家族の記憶。。。
そのような厳しい状況下で、マイティジャックを見られるようになったきっかけは、当時、前年度にクラスで全員が参加した、全国の版画コンクールでの銀賞獲得だった。
4月下旬だったと記憶しているけど、ここでも、あらたのは、蓄膿の症状大爆発!授業の途中で、賞状を受取り、「賞品があるから放課後職員室に取りに来るように。」と言われていたのにもかかわらず、そのまま忘れて、ご機嫌よろしく友達と下校の途に(友達も忘れてたと思うけど)。
当時の担任の先生は、とても美しい20代のA先生。クラスでの版画の合作や、スケッチ、共同製作など、とても教育熱心な先生だった。
その先生が、息せき切って、ハアハア言いながら、「忘れてるよ~!賞品ッ!」と言いながら、重たい賞品をぶら下げて、通学路をこちらに走って来るではないか!しかも、当時の蛍光灯スタンドは、頑丈な木箱に入った、かなりの重量物。
さすがは、蓄膿全開の「あらたの」です。喜んでころこんだ賞品をいともあっさり忘れて帰るなど。。重たい荷物を申し訳ありませんでした。
銀賞は、賞状と蛍光灯スタンドで、これまた昭和43年当時は、蛍光灯スタンドは、大変貴重でトレンド。いまの蛍光灯スタンドのように、タッチセンサーで点ったりはしませんぞ。
2つのボタンが付いており、そのうちの「ON」のボタンを、数秒以上、「押し続けてホールド」するのですが。。。
そうすると、蛍光灯の両端が、絵のように、赤くボーッと光り出すので、ここで、ガスのお風呂の点火よろしく、ほどよい赤さになったところで、パッとボタンから指を離すと白く点灯。
消すときは、もう一つのボタンを、短く押すだけ。こんな蛍光灯スタンドをご存じでしたかな?
で、これがきっかけで、ご褒美に何が欲しい?と親に言われて、土曜日8時は、マイティジャックを見せてくれ!!
契約成立の瞬間でした。
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